| 素弁瓦当 |
《百済系》
古代日本における百済系瓦当紋様の変換を、飛鳥寺から順に追って行きたいと思います。 ・飛鳥寺
しかし、明らかに百済の系譜を引いていると思える物は、花組の素弁八葉のものだけで、それ以前の素弁十葉はもとより、割り付けのしにくかったであろう星組の素弁九葉や十一葉は百済には見られず、模倣以外に独自の創意工夫もなされたと言われています。
******************************************* 何故色が違うのか? 色の違いは、瓦を焼く時の窯への空気の供給量の違いに対応し、赤っぽいのは「酸化炎焼成」と言って窯に空気を十分に供給して、粘土内の鉄を充分酸化させる事で酸化第二鉄を含み赤みを帯びるそうです。反して灰色っぽいのは、「還元炎焼成」と言って、焼成最終段階で燃料補給口を塞ぎ、空気を遮断する事で窯内が酸欠状態になり、鉄の酸化が充分に進まない事から、酸化第一鉄を含む事になり灰色になるそうです。 が、古代の瓦の色の違いが全て、飛鳥寺創建瓦の場合に当て嵌まるわけではありません。念の為。 ******************************************* 「花組」と「星組」は、この他にも製作技術に多少の違いが認められるので、既にこの時点で造瓦に関わるこの二組の集団があったと言われています。ちなみに、赤っぽいのは「花組」、灰色は「星組」の製作と言われています。 これ程はっきりした違いは、日本に瓦造りをもたらしたとされる百済には認められない現象で、この二組の集団は、日本で新たに組織された可能性があるそうです。 飛鳥寺南東にある「飛鳥寺瓦窯跡」が花組の使用窯であるとされています。製作方法の異なる星組も、おそらく個別に瓦窯を所持していたんでしょうが、御所市の上増遺跡近辺であろうと言う推定がされているだけで、その窯跡の存在は分っていません。 飛鳥寺では実に様々な種類の瓦当が使用されていました。星組・花組はもとより、同じ花組にしても八葉・十葉と蓮弁の数の異なる瓦当が使用されています。 《百済系・飛鳥寺以後》 飛鳥寺をルーツとする百済系瓦当文様は、この後意匠や技術等に展開を見せつつ継承されていきます。 飛鳥寺で使用された軒丸瓦の瓦笵は、その後、豊浦寺→斑鳩寺(若草伽藍跡)→四天王寺へと移動している事が各々の出土瓦から解っています。(詳しくはこちらへ 豊浦寺・若草伽藍) 改笵された物そのまま使用された為劣化の度合いがかなり進んだ物などがみられます。 中には、建設途中で瓦笵が多寺へ移動したと考えられるものも存在するそうです。時間の経過に伴いそれぞれの地域で新しい紋様の展開も見せていきます。 百済系の瓦当を受け継ぐ主要な紋様は、「奥山久米寺式」「船橋廃寺式」「若草伽藍出土」のものがあげられます。 ・奥山久米寺式…(620年代)
・若草伽藍出土…(620年代)
・船橋廃寺式…(630年代後半)
《高句麗系》
《豊浦寺》 610年代以降
また、ほぼ同時期に弁数の異なる瓦当が、斑鳩でも使用されていました。
主な高句麗系瓦当の出土地…豊浦寺・和田廃寺 ・中宮寺・平隆寺 ・衣縫廃寺・船橋廃寺・土師寺
《新羅系》 669年に半島統一を果たす新羅は、その前後で「古新羅」「統一新羅」と区別されます。 ・古新羅
・統一新羅 基調はやはり蓮華紋ですが、鳥や動物など、華麗で繊細な紋様が沢山現れます。軒平瓦や鬼瓦など道具瓦に凝った意匠が施されだすのもこの頃になります。 また、宝相華紋や、鳥・天人等華麗な紋様のセンも大量に作られたようです。
《その他》 6世紀末〜7世紀初頭、畿内で寺院建立が開始された丁度その頃、飛鳥寺の流れとは別だと思える瓦が出土している地域があります。 ・九州 日本三大古窯の一つである福岡県牛頸古窯群の「神の前窯跡」と「大浦窯跡」から、瓦当部に紋様を持たない土器と同じ制作方法の瓦類が出土しています。 出土品・・・丸瓦・平瓦・軒丸瓦 ・埼玉 「寺谷廃寺」の6世紀の可能性を持つ遺構から、大量の丸瓦と平瓦が出土しています。二種類発見されたうちの一種は、百済系の瓦当紋様を持ち、飛鳥寺創建瓦と年代的にも前後する物だということです。 ・奈良 奈良県広陵町の馬美丘陵にある「三吉三号墳の周濠」の出土遺物の中に軒丸瓦が含まれていたことから、付近に寺や窯跡の可能性があるとされています。この軒丸瓦は、飛鳥寺とは異なる百済系紋様を示している事から、星組や花組とは違った百済からの伝来も想定されています。 高句麗系紋様の出現と同じように、これらも情報発信源が飛鳥以外にもあったと考え得る要素の一つになるのかもしれません。
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