豊浦寺跡
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奈良県高市郡明日香村豊浦
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(豊浦宮に関しては、こちらをご参照下さい。 飛鳥三昧>飛鳥の宮>豊浦宮) 豊浦寺跡碑は、向原寺門前・右横に立っています。大きさは宮跡碑の半分にも満たないかもしれません。ここが古代豊浦寺跡だと知らなければ、気付くこともないだろうというぐらい控え目な碑です。 豊浦寺は、当初尼寺で、飛鳥寺と対を為す蘇我氏の氏寺だったとされ、飛鳥寺についで建立されたと言われています。
・伽藍 数度に渡る発掘調査で、金堂・講堂・塔・回廊や尼房の基壇と思われる遺構が確認されています。
向原寺本堂南側では、豊浦寺講堂の版築跡の遺構が常時公開されています。画像の石敷き部分が豊浦宮の遺構だとされ、その上層が講堂の建築にあたって施された版築になるようです。(右の写真が一番よく分かると思います) また、この推定講堂跡の西から、回廊と尼房かと言われる遺構が検出されています。 回廊と言われる遺構は、講堂跡の西側で高さ60cmの乱石積み基壇と犬走りと思われる石敷きなどが検出され、回廊の北(講堂跡の北西)から検出された3×7間以上の南北棟総柱建物は尼房であったのではないかと想定されています。これらふたつの遺構は、周囲の石敷きなどから繋がりを持っていた建物だとも考えられています。
講堂が飛鳥寺と同等の規模をほこっていたと思われることから、飛鳥寺式伽藍を想定される方もいらっしゃるようです。また、南から塔跡と思える遺構が発見されていることから、四天王寺式伽藍配置の推定もなされていますが、今後周辺の発掘調査が進まない限り、どれも推定の域をでるものではないようです。 豊浦寺の他の堂宇の規模を少しばかり小さくしたとしても、この地に三金堂の配置は、かなり難しいものだと私には思えるのですが。 ・瓦 創建時の豊浦寺は、飛鳥寺同様軒平瓦は使用されていなかったとされています。また、使用堂宇の特定はされていませんが、飛鳥寺のものに酷似した鴟尾片が出土しています。
豊浦寺では、約28種の瓦が創建に用いられたとされています。それは、百済系・高句麗系など多種多様であったようです。大まかに分けると上表のようになります。(バックが赤の2点は明日香村埋蔵文化財室収蔵品・黒は 奈文研・飛鳥資料館収蔵品です。サイトへの掲載許可を頂いています。) 最初に、金堂が飛鳥寺創建瓦であった九葉蓮華紋軒丸瓦を用いて建立されたようです。飛鳥寺でも、様々な弁数の百済系瓦当が使用されていましたが、星組のこの九葉は、伽藍建設の終盤に中門や回廊など主要伽藍以外に用いられたとされています。 下に簡単に百済系の瓦(製品と瓦笵)の移動を中心としたイラストを書いてみました。
豊浦寺の瓦は、紋様もさることながら、それぞれの紋様に対して焼かれた窯もその地方もバラバラだと言う特徴があります。
他の古代寺院との比較や出土瓦から考えると、豊浦寺の中枢伽藍建設は、金堂→塔→講堂の順に進んだと考えられます。 豊浦寺は、五大寺に数えられたこともありましたが、9世紀には堂宇が崩れ尊像が露呈し、鎌倉時代に若干の補修・再建が行われた様子が創建金堂上層で検出された4×5間の遺構(仏殿?)などに見受けられますが、それも室町時代後半に焼失、13世紀中頃には塔内の四方四仏が橘寺の再建三重塔に移されて、徐々に往時の姿を失っていったようです。 ***** 余談:豊浦寺建立の背景 当初飛鳥寺の創建瓦を用いながら、堂宇ごとにその瓦当形式や窯を変えていった豊浦寺。 飛鳥寺の完成間近(または完成直後)に豊浦寺は着工されたのだと考えられますが、豊浦寺の完成を待たずに若草伽藍や四天王寺は着工されている形跡があります。幾つもの寺院建立を同時にさばけるほどの力を蘇我氏は持っていたのでしょうか。 豊浦寺使用の高句麗系瓦当は、その窯の所在地や同笵瓦の出土する古代寺院などから、秦氏や高麗氏との関係が示唆されています。秦氏・高麗氏は早期に氏寺を建立した氏族で、ともに飛鳥寺・豊浦寺と同笵瓦を用いています。 飛鳥寺・若草伽藍・四天王寺と関連の僧寺の建立に重きを置いた蘇我氏が、他地域の有力氏族と連帯を図るために豊浦寺の建立を手放し、技術・知識等の協力を得たのではないでしょうか。秦氏は、上宮王家と密接な関係にあったとも言われていますし、高麗氏も蘇我氏と何らかの繋がりがあったようです。 近隣の氏族ではなく、畿外の有力氏族を相棒に選んだのには、当然何かしら意図するものがあったのでしょう。寺を仲立ちとする互いの知識・技術の交換で遠隔地の有力氏族との繋がりを強めようと蘇我氏側が図ったのではないでしょうか。 この他、大和・飛鳥で始まった初期寺院建立が飛び火するように、様々な地で飛鳥寺瓦当に酷似するものが出土していることを、その証とみることもできるように思います。 また、豊浦寺の建立に掛かった年数も、出土瓦から見て標準的であったように思えます。極短期間で中枢伽藍の建立が終わるのは、飛鳥寺だけと言えるほど、他の寺院は建立にそれなりの歳月を要したようです。豊浦寺に見られる中枢伽藍の方位のブレは、建立年代の差によるものではなく、他の氏族のと提携による建立の弊害だとは考えられないでしょうか。 豊浦寺は、背後に甘樫丘を控えた窮屈な場所にあります。地形も南に向かってやや上がっていく丘陵裾野。飛鳥寺建立の技術があれば、平坦な地に整地するのは、蘇我氏にとって困難なことではなかった筈です。しかし、それがされなかった本当のわけは、なんでしょう。背後に控える甘樫丘を神聖なものと考え、その地形を壊すことを畏れたんでしょうか。 当時、飛鳥の主だった地では、それぞれの氏族が既に基盤となる地を持っていたとされています。ここ豊浦は、元々蘇我本宗家の勢力地(邸宅跡?)だとされていますし、元々建物のあった場所なら開拓の必要性も少なくて済みます。豊浦宮の地はその後、桜井寺に施入されたとされます。豊浦寺が桜井寺を事実上吸収した事になるのでしょうか。(もしかしたら、豊浦への宮建設は、その後の寺も視野に入れてと言う事になるのかもしれないと思ったりもしますが。) では、元々あった桜井寺をどうしてそのまま利用しなかったのでしょう。規模や所在地などの詳細は不明ですが、590年に三人の尼僧が百済から帰って住んだとされるのは桜井寺です。(585年(敏達14年)に新しく寺を作り、とあるのも桜井寺のことではないでしょうか。) 桜井寺をそのまま氏尼寺として使用しなかったのは、寺院としての規模が飛鳥寺よりも遥かに劣ったからではないかと思ってみたりもします。が、宮と寺の地を交換した結果、立地の良い桜井寺が小墾田宮になり、豊浦宮が豊浦尼寺になったのだとする説もあるようです。(小墾田宮の位置は現在特定されていません。) 桜井寺が何処であったか、宮地として提供したのかは、それぞれ現在では推測の域をでません。 しかし、どちらにしろ、尼寺建立の地として蘇我本宗家が手を出せる地が、飛鳥にはもうここ豊浦しか残っていなかったのではないでしょうか。
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