豊浦寺跡


奈良県高市郡明日香村豊浦

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向原寺山門
 豊浦寺跡は、甘樫丘の北西部・豊浦の現在向原寺と呼ばれる小さなお寺の周辺にあったとされています。


豊浦宮跡碑
 ・ 豊浦寺址碑
 向原寺の山門から南へ入った民家の玄関先に建てられている「推古天皇 豊浦宮跡」碑の横の巨石は、その形から豊浦寺の塔心礎であったと言われているものです。後世にこの地に移されたらしいと言う事です。
  (豊浦宮に関しては、こちらをご参照下さい。 飛鳥三昧飛鳥の宮豊浦宮
 豊浦寺跡碑は、向原寺門前・右横に立っています。大きさは宮跡碑の半分にも満たないかもしれません。ここが古代豊浦寺跡だと知らなければ、気付くこともないだろうというぐらい控え目な碑です。 
 豊浦寺は、当初尼寺で、飛鳥寺と対を為す蘇我氏の氏寺だったとされ、飛鳥寺についで建立されたと言われています。

「元興寺縁起」 敏達14 585年 止由等佐岐に刹柱を立つ
推古元 593年 止由等の宮を寺と為す、故に止由等寺と名づく
「日本書紀」 推古11 603年 宮を小墾田に遷す。
「聖徳太子伝暦」 舒明元 634年 豊浦寺心柱を建つ
「日本書紀」 朱鳥元 687年 無遮大会を五ヵ寺(大官大寺・飛鳥寺・川原寺・小墾田豊浦寺・坂田寺)で営む



・伽藍
 数度に渡る発掘調査で、金堂・講堂・塔・回廊や尼房の基壇と思われる遺構が確認されています。


豊浦寺下層遺構(見学可)

豊浦寺下層遺構(見学不可)

豊浦寺下層遺構(見学不可)
 講堂基壇は、現在の向原寺境内東側の殆どを占めるのではないかと言われるほど巨大で、その規模は東西30m以上・南北22m前後で飛鳥寺講堂とほぼ同じ規模だと推定されています。
 向原寺本堂南側では、豊浦寺講堂の版築跡の遺構が常時公開されています。画像の石敷き部分が豊浦宮の遺構だとされ、その上層が講堂の建築にあたって施された版築になるようです。(右の写真が一番よく分かると思います)
また、この推定講堂跡の西から、回廊と尼房かと言われる遺構が検出されています。
 回廊と言われる遺構は、講堂跡の西側で高さ60cmの乱石積み基壇と犬走りと思われる石敷きなどが検出され、回廊の北(講堂跡の北西)から検出された3×7間以上の南北棟総柱建物は尼房であったのではないかと想定されています。これらふたつの遺構は、周囲の石敷きなどから繋がりを持っていた建物だとも考えられています。
 金堂基壇は、現在向原寺の南にある豊浦集会所の辺りで一部分検出され、規模は東西17m・南北14mに及ぶと想定されています。
 また、塔跡と推定される周囲に石敷きを伴う約14m四方の基壇が「推古天皇豊浦宮址碑」付近から発見されています。
 これによって寺域は、向原寺を中心に東西80m・南北150mはくだらないだろうと推定されています。南北150mと言えば、甘樫丘の丘陵裾から、集落北側の東西の道の辺りまでになるようです。
 豊浦の集落は、甘樫丘の裾野と言う事もあって、南に向かってやや上り気味になっています。整地のために土地は削られたり盛土されることはあっても、あえて傾斜をつけることはないでしょうから、これはこの付近の元々の地形なのでしょう。

イラストは、公開されている発掘調査位置図を基にしています。伽藍中軸線は、講堂跡と金堂跡、回廊や尼房と考えられる遺構もこれらと方位を同じくしています。が、南方で発見された塔跡は、これらの遺構と方位を異にしているように見えます。この方位のズレは、建立時期の差から出たものだと言う説が最も一般的です。



甘樫丘より phot by 真神原風人さん

 講堂が飛鳥寺と同等の規模をほこっていたと思われることから、飛鳥寺式伽藍を想定される方もいらっしゃるようです。また、南から塔跡と思える遺構が発見されていることから、四天王寺式伽藍配置の推定もなされていますが、今後周辺の発掘調査が進まない限り、どれも推定の域をでるものではないようです。
  豊浦寺の他の堂宇の規模を少しばかり小さくしたとしても、この地に三金堂の配置は、かなり難しいものだと私には思えるのですが。



・瓦

 創建時の豊浦寺は、飛鳥寺同様軒平瓦は使用されていなかったとされています。また、使用堂宇の特定はされていませんが、飛鳥寺のものに酷似した鴟尾片が出土しています。
年代 使用堂宇 軒丸瓦紋様形式・形態 瓦窯 同笵関係 図内記号
7世紀初頭 金堂 明日香村埋蔵文化財展示室収蔵品
百済系花組 素弁十葉蓮華紋
     星組 素弁九葉蓮華紋 等
飛鳥寺所有の瓦窯 和田廃寺
飛鳥寺(改笵後に若草伽藍へ)

瓦A
610年以降 奈文研・飛鳥資料館収蔵品明日香村埋蔵文化財展示室収蔵品
高句麗系
・有軸素弁八葉蓮華紋 等
隼上り瓦陶窯 等 北野廃寺(幡枝瓦窯産) 瓦1
630年以降 講堂 船橋廃寺式・八葉蓮華紋 等

        十六葉蓮華紋
高丘瓦窯
末ノ奥瓦窯
奥山久米寺跡

和田廃寺
瓦2
瓦の年代観から上表のような年代が推定されるようです。(当然ももの主観を含(笑))

 豊浦寺では、約28種の瓦が創建に用いられたとされています。それは、百済系高句麗系など多種多様であったようです。大まかに分けると上表のようになります。(バックが赤の2点は明日香村埋蔵文化財室収蔵品・黒は 奈文研飛鳥資料館収蔵品です。サイトへの掲載許可を頂いています。)
 最初に、金堂が飛鳥寺創建瓦であった九葉蓮華紋軒丸瓦を用いて建立されたようです。飛鳥寺でも、様々な弁数の百済系瓦当が使用されていましたが、星組のこの九葉は、伽藍建設の終盤に中門や回廊など主要伽藍以外に用いられたとされています。

 下に簡単に百済系の瓦(製品と瓦笵)の移動を中心としたイラストを書いてみました。

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瓦笵A

瓦笵B
 「素弁九葉蓮華紋(イラスト・瓦A)は、飛鳥寺創建瓦の一種で、胎土や焼成が飛鳥寺の瓦と同じことから、製品として豊浦寺に供給されたとされています。瓦笵の劣化に伴い豊浦寺での使用中に改笵を受けた瓦笵は、その後若草伽藍へと移動し、創建瓦に使用されます。この軒丸瓦の存在が、飛鳥寺⇒豊浦寺⇒若草伽藍と古代寺院の建立順の確定に一役買ったと言う事になるのでしょう。

 若草伽藍・四天王寺使用瓦(B)は、豊浦寺には直接関係ありませんが、紋様の変換と創立年代を推定する場合に引き合いに出される事が多いので、ついでに付け加えてみました。
 「瓦笵A」は、星組の素弁九葉。
   (弁の割付が不揃いな稚拙さのある紋様になります。)
 「瓦笵B」は、星組の八葉
   (花組に少し似る雰囲気をもった柔らかい紋様。四天王寺・難波の宮跡等からも出土。)


 豊浦寺の瓦は、紋様もさることながら、それぞれの紋様に対して焼かれた窯もその地方もバラバラだと言う特徴があります。

 

豊浦寺出土有軸素弁八葉 
photo by真神原風人さん
奈文研飛鳥資料館収蔵品
 金堂の瓦は飛鳥寺から供給されたものですが、講堂使用の瓦とされる「船橋廃寺式」は兵庫県の高丘瓦窯・岡山県の末ノ奥瓦窯、塔使用とされる「高句麗系・有軸素弁八葉」は、京都府宇治の隼上り瓦陶窯から運ばれています。
 高句麗系瓦当は、出土瓦半分の14種になり、そのうちの5種が隼上り瓦陶窯の製品になるそうです。隼上り瓦陶窯は須恵器も焼く兼業窯で、瓦以外にも寺で必要とされる仏具や日用品などが出土していています。
 豊浦寺の為に作られたとされる隼上り瓦陶窯は、現在のところ最古の工房跡をもつ瓦窯跡になります。
(”高句麗系瓦当”は、近年の調査によって、高句麗よりも新羅の系譜に近いものがあるとも言われ、”新羅系”とされる場合もあります。)

 他の古代寺院との比較や出土瓦から考えると、豊浦寺の中枢伽藍建設は、金堂→塔→講堂の順に進んだと考えられます。

 豊浦寺は、五大寺に数えられたこともありましたが、9世紀には堂宇が崩れ尊像が露呈し、鎌倉時代に若干の補修・再建が行われた様子が創建金堂上層で検出された4×5間の遺構(仏殿?)などに見受けられますが、それも室町時代後半に焼失、13世紀中頃には塔内の四方四仏が橘寺の再建三重塔に移されて、徐々に往時の姿を失っていったようです。




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余談:豊浦寺建立の背景

 当初飛鳥寺の創建瓦を用いながら、堂宇ごとにその瓦当形式や窯を変えていった豊浦寺。
 飛鳥寺の完成間近(または完成直後)に豊浦寺は着工されたのだと考えられますが、豊浦寺の完成を待たずに若草伽藍や四天王寺は着工されている形跡があります。幾つもの寺院建立を同時にさばけるほどの力を蘇我氏は持っていたのでしょうか。

 豊浦寺使用の高句麗系瓦当は、その窯の所在地や同笵瓦の出土する古代寺院などから、秦氏や高麗氏との関係が示唆されています。秦氏・高麗氏は早期に氏寺を建立した氏族で、ともに飛鳥寺・豊浦寺と同笵瓦を用いています。
 飛鳥寺・若草伽藍・四天王寺と関連の僧寺の建立に重きを置いた蘇我氏が、他地域の有力氏族と連帯を図るために豊浦寺の建立を手放し、技術・知識等の協力を得たのではないでしょうか。秦氏は、上宮王家と密接な関係にあったとも言われていますし、高麗氏も蘇我氏と何らかの繋がりがあったようです。

 近隣の氏族ではなく、畿外の有力氏族を相棒に選んだのには、当然何かしら意図するものがあったのでしょう。寺を仲立ちとする互いの知識・技術の交換で遠隔地の有力氏族との繋がりを強めようと蘇我氏側が図ったのではないでしょうか。
 この他、大和・飛鳥で始まった初期寺院建立が飛び火するように、様々な地で飛鳥寺瓦当に酷似するものが出土していることを、その証とみることもできるように思います。

 また、豊浦寺の建立に掛かった年数も、出土瓦から見て標準的であったように思えます。極短期間で中枢伽藍の建立が終わるのは、飛鳥寺だけと言えるほど、他の寺院は建立にそれなりの歳月を要したようです。豊浦寺に見られる中枢伽藍の方位のブレは、建立年代の差によるものではなく、他の氏族のと提携による建立の弊害だとは考えられないでしょうか。

 豊浦寺は、背後に甘樫丘を控えた窮屈な場所にあります。地形も南に向かってやや上がっていく丘陵裾野。飛鳥寺建立の技術があれば、平坦な地に整地するのは、蘇我氏にとって困難なことではなかった筈です。しかし、それがされなかった本当のわけは、なんでしょう。背後に控える甘樫丘を神聖なものと考え、その地形を壊すことを畏れたんでしょうか。
 当時、飛鳥の主だった地では、それぞれの氏族が既に基盤となる地を持っていたとされています。ここ豊浦は、元々蘇我本宗家の勢力地(邸宅跡?)だとされていますし、元々建物のあった場所なら開拓の必要性も少なくて済みます。豊浦宮の地はその後、桜井寺に施入されたとされます。豊浦寺が桜井寺を事実上吸収した事になるのでしょうか。(もしかしたら、豊浦への宮建設は、その後の寺も視野に入れてと言う事になるのかもしれないと思ったりもしますが。)
 
 では、元々あった桜井寺をどうしてそのまま利用しなかったのでしょう。規模や所在地などの詳細は不明ですが、590年に三人の尼僧が百済から帰って住んだとされるのは桜井寺です。(585年(敏達14年)に新しく寺を作り、とあるのも桜井寺のことではないでしょうか。)
 桜井寺をそのまま氏尼寺として使用しなかったのは、寺院としての規模が飛鳥寺よりも遥かに劣ったからではないかと思ってみたりもします。が、宮と寺の地を交換した結果、立地の良い桜井寺が小墾田宮になり、豊浦宮が豊浦尼寺になったのだとする説もあるようです。(小墾田宮の位置は現在特定されていません。)
 桜井寺が何処であったか、宮地として提供したのかは、それぞれ現在では推測の域をでません。

 しかし、どちらにしろ、尼寺建立の地として蘇我本宗家が手を出せる地が、飛鳥にはもうここ豊浦しか残っていなかったのではないでしょうか。


2006.9.21. 明日香村埋蔵文化財展示室収蔵品 使用許可申請済みの画像追加
2004.11.06.
2005.12.18. 追記